解体中の小田原城天守 [中近世・城郭]
天守閣で開催する「よみがえる小田原城」で掲載する写真などを順にアップします。
http://jun3519.blog.so-net.ne.jp/2013-10-21
明治維新を迎え、明治2年(1869)の版籍奉還によって、改めて小田原藩知事に
任命された大久保忠良は、藩の財政が城郭の修補に耐えられないことを理由に、
廃城令を待たずして明治3年(1870)に明治政府に廃城届を提出した。
廃城願いの書類には、城郭の諸櫓が昨年秋以来の数度の暴風雨によって大破した
ことを伝えているが、明治初期に撮影された古写真には銅門や南曲輪西南櫓など、
千鳥破風や石落しを備えた優美であった城郭建築は、屋根瓦が崩落し、白壁も崩れ、
荒れ果てた姿を示している。
同年11月10日、高梨町(本町2丁目)の平井清八郎ら民間人に、天守閣や櫓など5棟
の建物が900両で払い下げられた。解体は契約から晴天60日を限って取り壊された
とされ、12月中には解体された。写真は、解体中の天守(横浜開港資料館蔵)
現存する天守唯一の写真で明治3年11月に天守閣など建物の売却が決まり、
人々の見学が許可された。
この写真は、天守閣解体作業の最中の1870年(明治3)12月頃に撮影された
ものと推定される。
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