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新刊紹介 池谷信之著『黒曜石考古学』その3 [旧石器]

第Ⅲ章では、「黒曜石利用の歴史2」とし、5節に分けて縄文時代から弥生時代の研究が記されている。
 「1 東海東部における縄文化の過程と黒曜石利用1」では、まず、旧石器時代終末期の細石器の編年から縄文時代草創期の石器と土器と編年に触れ、続いて、縄文時代草創期の石器製作と居住施設から見た縄文化を論じる中で、細石器段階、さらには縄文時代草創期において、石材の管理が「集団管理から世帯管理へ」と移行することを示した。特に「シャフトへの臨機的な補給を可能とした細石器の登場は、それまでの原産地と居住地との頻繁な往復あるいは巡回という、石材獲得行動からの解放、ないし一定期間の猶予をもたらしたものと考えられる」と細石器の登場の行動論的意義について評価している。

「2 東海東部における縄文化の過程と黒曜石利用2」では、縄文時代草創期から早期の黒曜石採取と搬出、石器製作工程の変化などから、定住化へと向かう具体像を示し、黒曜石の受給の変化と軌を一にするように、土器の製作技法にも変化が認められることを明らかにした。

「3 アカホヤ火山灰下の共生と相克」では、 池谷氏の本来の縄文土器型式研究者としての側面を見せ、縄文時代前期初頭に位置づけられる木島式土器の編年を再検討する中で、鹿児島県鬼界カルデラの噴火によりもたらされたアカホヤ火山灰の影響について議論をしている。そして、アカホヤ火山灰降下の影響について、前後の石器組成の変化から生業活動、具体的には陸生の動植物から海洋資源への転換があることを指摘し、さらに東海西部から東部への集団の移動について論じている。

「4「海の黒曜石」から「山の黒曜石」へ 」では、伊豆半島に位置する見高段間遺跡を神津島恩馳島産黒曜石の陸揚げ地として位置づけ、縄文時代中期における外洋適応と黒曜石交易について議論している。同遺跡は中期初頭では竪穴住居址を持たず、中期後半には東海地方東部において唯一の環状集落となることなど、同遺跡の性格や位置づけについて検討が加えられている。そして、関東から伊豆半島の縄文時代前期から中期の各遺跡の黒曜石産地推定の結果、前期末から中期初頭になると神津島産へと主体が移ることを示すとともに、こうした関東各地への神津島産黒曜石の供給は、見高段間遺跡を経由した可能性が高いという。また、中期初頭の同遺跡を残した集団の故地について、増島淳氏による土器の産地推定をもとに神奈川県西部の酒匂川上流域であるものと推定している。さらに、見高段間遺跡中期後半には再び、静岡県東部唯一の環状集落として、神津島産黒曜石の陸揚げ地として、関東各地へと再分配の拠点となったことを示している。そして、中期後半の加曾利E3式段階になると神津島産黒曜石が減少し、代わって信州系黒曜石が増加をすることを指摘し、その背景には長野県星糞峠原産地など信州系黒曜石原産地の採掘を伴う再開発があったことを示している。

 「5 狩猟社会の終焉と縄文的石器製作体系の解体」では、関東から東海中部までの縄文時代後期から弥生時代中期における黒曜石利用と採掘について検討が加えられている。縄文時代中期末以降、神津島産黒曜石に代わって、次第に信州系黒曜石が黒曜石組成の主体を占めるようになり、天城柏峠産や箱根畑宿産の黒曜石が一定量含まれる。そして、その黒曜石供給パターンは弥生時代前期まで継続して認められ、弥生時代中期中葉になると一変し、神津島産黒曜石が100%近くを占めるようになり、弥生時代中期後葉でも神津島産主体の状況は続くことを示した。続いて、信州系と神津島産黒曜石の搬入形態、すなわちどのような形状の石材が搬入されたかを検討している。信州系黒曜石では、縄文時代晩期から弥生時代前期の剥片に高い比率で角礫面が存在することから、採掘によって供給された可能性を指摘し、遺跡には小形の原石として供給され、中期中葉までは、遺跡内で石器製作が行われていることを示した。一方、神津島産黒曜石は、旧石器時代から弥生時代中期前葉までは、角礫が中心であったが、中期中葉から後葉までは円礫で搬入されていることを明らかにした。

こうした検討により、「縄文時代晩期以降、黒曜石から製作される石器は原石の縮小を反映して、小形化し、あるいは形態を変化させている。また弥生時代に入ると黒曜石製石器の組成から石匙や石錐が消滅し、石鏃だけが残される。こうした過程を「縄文時代的石器製作体系の解体」と呼称した。」そして、弥生時代中期中葉は、「南関東周辺が本格的な稲作農耕社会に突入し、遺跡立地も水田管理を意識して低地へと移動していく時期」であり、こうした石器組成や黒曜石産地の変化、特に石鏃製作がほぼ終焉へと向かうことから弥生化の進行を読み取っている。

ここで示された研究は、自らの分析装置によって黒曜石原産地分析を行ったものであり、共同研究者の杉山浩平氏と共同で進めてきた成果であろう。

第Ⅳ章は、「黒曜石考古学の確立に向けて」と題し、これまでの研究を総括的に取りまとめたものである。科学的原産地推定と石器研究の歴史を振り返り、「黒曜石考古学」確立に向けた方法論的課題について述べている。その中で、安蒜政雄氏によって提示された「黒曜石の採取から集落への受給、石器製作・消費に至る過程が、社会の構造的な変化と連動していることを示し、「黒耀石考古学」成立の可能性」への展望に基づき(安蒜2003)、もう一度、黒曜石の原石の採取から消費に至る基礎的な観察と記述を行い、「こうした情報を、石器製作、石器の型式・形態、石器組成といった日本考古学が鍛えてきた石器研究にどう取り込んでいくのか、それが「黒曜石考古学」の確立に向けた方法論的課題」であるとした。

「おわりに」で池谷氏が総括するように、「東海地方東部を中心として、三万数千年前の後期旧石器時代初頭の黒曜石利用の開始から、約2千年前の弥生時代中期の黒曜石利用の終末に至るまで、その採取と受給、石器としての利用について述べてみた。その転換点の多くは東海地方東部という地域的な枠組みをこえて石器時代社会の構造的変化と関わりを持ちながら連動していることが明らかとなった。」と述べるように、まさしく「黒曜石利用の歴史から石器時代史を叙述」したものといえる。

 

その4に続く

掲載文献諏訪間 順 2009「新刊・論文紹介 池谷信之著『黒曜石考古学-産地推定が明らかにする社会構造とその変化-』 」『長野県考古学会誌』128 長野県考古学会 

 
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