小田原城で戦国の弓初出土の記事 [中近世・城郭]
昨年の小田原市遺跡発表会の記事で報告していたのですが、http://jun3519.blog.so-net.ne.jp/2010-12-13
本日、読売新聞に記事になりました。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110213-OYT1T00023.htm?from=navlp
上杉謙信、武田信玄の来攻との関係が書かれていますが、取材を受けた担当者はそんなことは一言も言っていないと思いますよ。お間違いなく。
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信玄軍が使った?戦国の弓初出土…小田原城跡
小田原城跡の堀から出土した弓胎弓(小田原市文化財課提供)
神奈川県小田原市栄町の小田原城跡の発掘調査で、15~16世紀のものとみられる漆塗りの弓が出土していたことがわかった。 市によると、戦国時代の遺構から弓が出土したのは全国で初めて。 見つかったのは現代の弓道上級者も使っている「弓胎弓(ひごゆみ)」と呼ばれるタイプで、竹や木の片を組み合わせた芯を用いて威力を増したと考えられる。専門家は「弓胎弓は文献上、江戸時代に使われていたことがわかっているが、戦国時代からすでに使われていたことを裏付ける貴重な発見」と指摘している。 市教委文化財課によると、弓は、戦国時代に小田原城周辺につくられた深さ約2・4メートルの堀から出土した。飲食店の新築工事に伴う市の発掘調査(昨年1~3月)で、堀底に積もった粘土質に埋まっていた。 弓は長さ約1メートルで、漆が塗られ、やや反った形状。両端が折れてなくなっていた。木製で腐ってしまう弓本体が見つかるのは珍しく、同課の担当者は「粘土質や漆塗りが劣化を防いだのだろう」と語る。 「国際日本文化研究センター」(京都市)の近藤好和客員教授(日本武具史)によると、弓胎弓は木と竹を使った合わせ弓の一種。中世には木の表裏に竹を張り合わせた三枚打弓(さんまいうちゆみ)が一般的だったが、近世に弓胎弓に取って代わられたという。 弓の歴史など文化史に詳しい同センターの准教授、山田奨治さんによると、江戸時代の1686年に刊行された山城国(現在の京都)の地誌書「雍(よう)州府志」に弓胎弓の作り方が書かれている。 全日本弓道協会副会長の千葉知之さんは、「弓胎弓は焼きを入れた竹で芯を作るため、三枚打弓より耐久性が増し、矢を飛ばす威力が弱まる『へたり』が来るのも遅い。戦国時代、威力を増すために考案されたのではないか」と推測する。今でも、弓道初級者の学生らが比較的安いグラスファイバー製を使うのに対し、弓道四段以上の上級者は日本古来の弓具を好み、高級な弓胎弓を使う。 今回、弓が出土したのは、江戸時代に「幸田口(こうだぐち)」と呼ばれた場所。戦国武将・上杉謙信(当時は長尾景虎)が1561年、小田原城の攻め口にしたとの記録がある。またその後、武田信玄が今回の出土地点から約100メートル西にあった「蓮池」まで進撃したとの古文書も残されているため、市は「上杉謙信や武田信玄の小田原攻めで使われた可能性も否定できない」としている。 ◆弓胎弓=細く加工した木や竹を3~7本重ねて芯(弓胎)とし、その両側に竹を張り合わせる。旧来品の三枚打弓より矢の飛距離や威力が増したと考えられる。弓は古代、木製だったが、しなりを得るために中世以降、竹を使うようになり、徐々に竹の割合が増えていった。弓は、甲冑(かっちゅう)や刀剣類に比べ、美術骨董(こっとう)品としての価値が低いため、研究が盛んではなく、弓の変遷は詳しく分かっていない。 (2011年2月13日15時36分 読売新聞)
このようなものが見つかっていたとは!!
是非天守閣で展示して欲しいです。
by yanya (2011-02-15 20:36)
天守閣での展示は予定されていませんが、毎年秋から冬に開催の最新出土品展で公開することになると思います。ただ、保存処理には1年近くかかるので、今年は無理かもしれませんね。
by ジュンクワ (2011-02-16 23:31)
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by ジュンクワ (2011-02-16 23:34)