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シンポジウム趣旨説明 [考古学]

 

シンポジウム発表要旨の趣旨説明を転載します。

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趣旨説明 足柄平野の古墳出現期を考える

 

小田原市教育委員会

諏訪間順  

 足柄平野は、酒匂川左岸の森戸川流域を中心に永塚、千代、高田、中里、国府津三ッ俣など、右岸では、小田原城八幡山古郭に位置する東曲輪から藤原平一帯や久野川流域の久野などに、弥生時代から古墳時代にかけての大規模な集落と方形周溝墓などの墓域が数多く確認されています。

 こうしてみると足柄平野は、神奈川県内でも突出した遺跡の密集地域といえます。また、足柄平野は、地理的には関東の玄関口として、ヒトとモノが行き交う交通の要衝の地であり、西からの新しい技術や文化が伝わる際に、まずはこの地に到達し、さらに東へと広がっていく、いわば広域ネットワークの拠点であったとみなすことができます。

 それは、東日本における本格的な弥生時代の集落としては、最古段階に位置づけられる中里遺跡(ロビンソンデパート一帯)の存在に象徴的です。続く弥生時代後期では、中部高地系や東海西部、北関東系の各地域の土器が数多く搬入されていることや、さらに古墳時代前期では、当時の最先端の技術ある製鉄技術の存在を示す鉄滓や羽口が他地域に先駆けて千代台地で出土していることからもうかがうことができます。このように弥生時代の後半から古墳時代前半期の遺跡のあり方からは、足柄平野におけるこの時代の広域性や先進性を読み取ることができます。

 近年、小田原市内の発掘調査件数の増加に伴い、古墳時代前期の前方後方形周溝墓が、千代・国府津などで発見されるようになりました。これらの周溝墓は、弥生時代後期~古墳時代前期の一般的な墓の形態である方形周溝墓から、古墳時代に新たに造られる前方後方墳への過渡期に位置付けられるもので、古墳時代の始まりを考える上で重要な成果になりました。

 また、千代東町では、70m×40mの規模を持つ墳丘状盛土が確認され、試掘調査により、弥生時代後期の集落の廃絶直後に5m以上の盛土により造成された大規模な遺構であることがわかりました。主体部や周溝が未確認で決め手にかけますが、前期古墳であった可能性が指摘され、「千代大藪古墳」と呼称されています。

 小田原市の位置する足柄平野は、地理的位置関係からヤマト政権の東国進出の過程を考える上で重要な地域であったことは間違いありません。しかしながら、これまで明確な前期古墳の存在が確認されていないことから、前期古墳の空白地帯として、長らく検討の対象にもならない状況が続いていました。

 しかし、平成217月に小田原城八幡山(小田原高校地内)から壺型埴輪の破片が出土し、背後の「高台」と呼ばれる戦国期の櫓台跡が前期古墳である可能性が高まりました。この埴輪の存在によって、ヤマト政権の東国進出と足柄平野の関係を議論できる材料を得たことになります。

 そこで今回は、「古墳時代の始まりと足柄平野」というテーマで、足柄平野における古墳時代の幕開けについて、皆さんと考える機会を持ちました。これまで位置づけが明確ではなかった前方後方形周溝墓や千代大藪古墳などの墳墓群、新発見の埴輪を検討するとともに周辺の集落との関係にも目を向けます。

 まだまだ資料不足の観は否めませんが、こうした調査・研究の現状を整理することによって、足柄平野の、相模地方ひいては関東地方における位置付けやヤマト政権との関係を考えてみたいと思います。


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